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虎を退治する

数冊の本を読んだ。偶然にも、どれも虎の退治に関する内容だった。
そのうちの一冊は、こんなストーリーだった。


主人公の “私” は、いつものソファに座ろうとして違和感を感じる。カバーをめくると、内部からムカデにも似た虫が次々と湧いて出て来る。戦慄を覚えながら、すぐにもこのソファを自分の空間から排除しなければならないことを悟る。虫の奥には、虎が潜んでいることを、私は知っていたのだ。


私は、家具店に電話をかけ、今のソファの撤去と、新しいソファの設置を依頼する。速やかに、家具店のスタッフが十数人やってきた。スタッフは、寸法を測ろうとメジャーを取り出し、仕事に取り掛かったように見えたが、いつのまにか、そこはパーティー会場へと変貌していた。
スタッフたちは並んだ丸い鏡に各々の顔を写し、顔中を真っ白に塗りたくっていた。そこへ真紅の紅を差し、十二単のような着物を身に纏った。
平安朝パーティーは続き、私は仕方なく、自分のメジャーを取り出してきて、寸法をひとりで測ることにした。たったひとり、N君が協力してくれた。虫に怯える私をかばうように、彼は率先して寸法を測ってくれた。私とN君は、そうして恋に落ちた。


その晩は、スタッフ全員がこの部屋で寝泊まりした。全員が寝転がるにはこの部屋は狭すぎた。おしくらまんじゅうをするように私たちは眠った。
私は、自分の背中がN君の背中と密着していることで、不思議なまでに深く安心した。きつく押し合っていたため少しだけ背中が痛んだけれど、その痛みこそが二人をさらに強く結びつけてくれている気がした。私たちは、身体が連なったまま生まれてしまった双子の赤ちゃんのようだと思った。


翌朝、私たちはソファの廃棄の仕方を考えた。もう家具店は頼りにならない。邪魔をしに来ただけではないか。虎をソファに閉じ込めたまま、市の回収に出すとすれば、途中で何も知らない職員が覚醒した虎に襲われてしまうかもしれない。一番良いのは、どこかでガソリンでもかけて燃やしてしまうことだった。けれど、大きな体育館のような建物であっても燃え移ってしまう可能性が大きいし、屋外で燃やすにもそれに適した空き地はどこにもなかった。どこも建物が非常に密集して建っており、空き地などという言葉さえ、ここには存在しなかった。


この世界は、何もかもが異常に密集した、密度の高い世界だったのだ。
化粧品でさえ、酸化チタンが高濃度で含まれるため、顔に塗ると真っ白になってしまうのだ。(ついでにUVカットも万全だ。)衣類も、何重にも生地が重なって分厚くなっている。これで、平安朝パーティーの謎が解けた。


N君と私は、ソファを廃棄することを既に諦めていた。
虫の出口となったほころびを繕って、虎が内在するままのソファの上で、ふたりは抱き合って涙を流した。


……そんな物語だった。
花瓶となって、たくさんの水と少しの洗剤を飲み込み、口を閉ざして百回ほどシェイクし、一気に水を吐き出してみたくなった。そうすれば中にいる虎が退治できる気がした。
そう出来たなら、また花を生けることができるかもしれないと。

 

新・閏年

政府から、新しい閏(うるう)年の制度の導入が発表された。官房長官が喋っているのをニュースで見た。いつもと同じ様なトーンで、ごく当然のことのようにさらっと、それは発表された。
来年から始まるというその制度は、通常なら2月29日だけをプラスするのに代えて、一週間をプラスするのだそうだ。正月の7日間を年の頭に追加する。1月7日の次に、また1月1日がやってきて、そのまま一年が経過するという具合。一年に二度お正月を過ごすことができるのだから、めでたい制度だと語っていた。


軽減税率を適応し8%にするものと10%にするものと線引きをしたように、正月関連の行事も、一度目の正月にするものと二度目にするものとに綿密に分類された。年賀状の配達は一度目、除夜の鐘を鳴らすのは二度目、紅白歌合戦の放映は一度目、等々。
すべてに線引きがなされ、その理由もきちんと裏付けがあるということで、専門家が出てきて詳しく説明をした。しかしさっぱり理解できなかった。なぜなら説明が始まるやいなや睡魔に襲われ、それに抗うことが出来なかったから。専門家の言葉には、睡眠薬が仕込まれていたに違いない。


国民はなんだかんだ言っても黙って従うしかない。突然卵が降ってきたとしたら、割れないように受け止めるのが我々にとって最善の行動だ。
日々を生活するのに必死な庶民は、二度お正月が来るからと言って浮かれるようなことはしなかった。一度目の正月はそれとなくスルーして、二度目の正月を本物として扱おうとする空気が、暗黙のうちに国全体に広がっていった。私もそれを肌で感じていた。


実際に一度目の正月がやってきて、年賀状が配達されたが、何となく年の瀬の慌ただしいときに空気を読めずにやってきた親戚のようで、届いた年賀状たちも居場所がなく申し訳なさそうにしている気がした。紅白歌合戦も、二度目のクリスマスの騒ぎにしか思えなかった。多くの家で、年が明けてから二度目の正月が来る前に大掃除をした。
二度目の正月が来ると、テレビでは一週間前にやったばかりの除夜の鐘の放映(本来は二度目だけと決められていたが、混乱の中それを律儀に守る放送局はなかった)や、初日の出の中継などが繰り返され、タレントたちは一週間前と同じ和服を着て、芸人たちは一週間前と同じネタの漫才をしていた。その既視感と言ったら、もはや笑い事ではなかった。一週間のうちに一年が過ぎ、一歳、歳をとってしまったような錯覚に襲われた。


手帳を見ると、驚くべきことが起こっていた。曜日が増えていたのだ。
月月月火水木金土日。月曜日が3回繰り返され、週9日になっていた。日付は、1 8 8 2 3 4 5 6 7。1日の次に8日が二度あって、その次が2日だ。
もしやこれは。世間で囁かれていた問題が実際に起きてしまったのだろうか? 2000年問題というのがかつてあったように、新型閏年に対応しきれないコンピュータシステムが誤作動を起こす危険性が一部で叫ばれていた。政府はそれを完全に黙殺した。


疑念がむくむくと膨れ上がってきた。もしかして、この誤作動もすべて、政府の計画ではないのか?
そうでなければ、土曜か日曜を3回にするべきだ。政府以外のどんな人間がやっても、どんな神様がやっても、この誤作動は週末に起こるはずだ! まさかの月曜日が3回。これはまさしく政府と大企業の陰謀に違いない。今の政権ならやりかねないことだ。考えれば考えるほど、それは真実味を帯びてきた。

 

合言葉

独特のユーモアのセンスがあるので有名な、議員のK氏が、体育館に講演をしに来る。女子たちは誰が来るかを知らず、有名な外国の歌手が来るらしいと噂を立てていて、それが誰なのかで会話に花を咲かせていた。
体育館に椅子を持ち込み、並べながら、話に乗って一緒に盛り上がらない私はだんだんと疎外され始めた。午前の体育の授業で、私が下手なせいでバレーボールの模擬試合に負けたことを言葉の端に匂わせて、皆が私を責める空気を醸成していた。


私はK氏が来ることを初めから知っていたし、先程、本人に体育館の外で会った。「山」と言ったら「川」と答える合言葉のように、私は何かの単語をK氏に向かって言った。K氏も、当たり前のように合言葉で返してくれた。


K氏が壇上に現れて、生徒たちはあからさまにがっかりした様子。有名歌手が来ると囁かれていたのだから当然かもしれないけれど、派手に舌打ちをする子もいたり、大変に失礼な反応だった。講演はとても真面目で硬い内容だったので、女子たちは退屈してあくびをしていた。K氏は愛想笑い一つせず、退屈なスーツに退屈なネクタイをして、退屈なトーンで話した。


私はひとり、心の中で、あの合言葉を思い起こしていた。私とK氏は確かに内面で繋がっている。私はみんなの知らない彼のユーモアのセンスも知っているし、みんなは何も知らないで大切なものを見逃して、見逃していることさえ気づかないのだ。
その価値は私だけが知っている、そう思うと、どこか後ろめたいほどの快感が湧き上がった。

 

外部ファースト

部屋に、首から上だけのマネキンが四体ほど置かれていた。カーテンレールの上の棚にマネキンの首が並び、それぞれにカツラをかぶっている。モーツァルト風だったり、ベートーベン風だったり、様々なカツラ。
私はなぜ自分の部屋にそんな物があるのか、首を傾げた。気味が悪いので、ゴミの回収日に出してしまおうと思い、こういうものはいつどうやって出せば良いのかを母に相談しに行こうとしたとき、捨ててはいけない理由を思い出してしまった。


家に知らないイタリア人が数人、出入りするようになってしばらく経っていた。彼らは何故か、朝だけ家にいる。私が目覚める頃にはいて、朝食をとり、いつの間にかいなくなる。三十代くらいの男性と、五十過ぎの女性、十歳ちょっとの女の子、この三人のことが多かった。年齢からも、お互いへの態度からも、家族ではないように思われた。
彼らは朝からパスタを食べ、ワイングラスでなにか飲んでいる。その傍らで小さくなって、私はいつも朝食をとった。学校へ行かなければならないので(私は高校生くらいだった)朝は慌ただしく、彼らの目を意識している余裕もあまりなかったけれど、それでも落ち着かず不快だった。
彼らのために、私は自室のベッドを明け渡さなければならなかった。私のベッドの隣にくっつけて彼らのベッドが一台運び込まれ、キングサイズになったベッドに、三人が川の字のように寝転がった。次第に私の部屋には彼らの持ち物が侵食し、マネキンとカツラもその一部だった。彼らは朝食のときによくそれをかぶっていた。


ある日、彼らのいない昼間に、私は自分のベッドをしみじみと見た。物には、その所有者の持つエッセンスのようなものが指紋の如く刻まれ、当人がいなくてもその気配を濃厚に醸し出すものだ。私のベッドからは私の気配は既になく、彼らの気配が色濃く滲み出ていた。微かなマットレスの凹凸の形も、見慣れないローズピンクのシーツとカバーも、彼らの波動を饒舌に物語っていた。
私は自分の来し方を振り返り、泣いたり笑ったり様々だった、これまでのすべての一日をこのベッドの上で閉じてきたこと、このベッドが私の人生の重みを受け止めてきたのだということに思い至り、我知らず涙が溢れた。その経験と宝を、まるごと赤の他人に奪われてしまったように感じた。


イタリア人は、多分私のピアノの先生の紹介で、家に来ることになったのだと思う。先生は昔イタリアに留学したことがあると言っていた。その人脈なのだろう。
母には、ピアノの先生のみならず、誰かに言われたことに後先考えず、二つ返事でOKを出す癖があった。完全な外部ファーストで、家庭の内部にどんな影響があるかなどは全く考慮せず、ただその場の善意でイエスと言ってしまうのだ。それは母が善良な人間である証明だったが、少なくとも私にとってはひどく悪い癖に感じられた。今回も、そうやって何も考えずイエスと答え、この現状がもたらされたのだろう。


翌朝、私が寝ていると、その部屋にイタリア人たちが入ってきた。私は目が覚めていたが、寝たふりをしていた。彼らは始め日本語で喋っていたが、途中から声を潜め、私の方をちらちらと見ながらイタリア語を喋り始めた。私に聞かれてはまずいことなのだろう。
その状況がとても屈辱的に思え、私は寝返りを打つふりをして、腕で顔を覆い隠した。涙が流れるのを隠すために。五十過ぎのイタリア女性が、私の様子に気づき、そっと私の腕をとって顔の上から外し、代わりに毛布を頭の上まで覆うようにかけてくれた。私を起こさないように細心の注意をはらい、優しさに満ちた行為だったことは感じ取れた。
毛布で覆われた顔は火照り、息苦しくなった。このまま呼吸が止まってしまいそうな恐怖に襲われた。私は毛布を跳ね除けて、部屋から駆け出していった。


あの人達を家から追い出して! 泣きじゃくりながら母に訴えた。
母はその朝はやく出勤しなければならなくて、私に構う暇はなく、そそくさと家を出ていった。私は彼らの朝食の支度もしなければならなくなった。彼らの食べていたパスタやら何やらも、うちで全部用意してあげていたことに気づいた。
気まずい空気の中、私はとりあえずトマトを切って、皿に乗せて出した。他に何を出したら良いかわからず冷蔵庫を開けると、がんもどきのような和惣菜が一つあるだけで、他に何もなかった。これを温めて出すしかないのか? 方途を失い、鼻の奥がつんと痛んだ。

 

壁を作ってるよね

演劇の学生サークルのような団体に入ろうとしている。沢山の団員と沢山の志望者がいて、ごった返していた。私は演劇を観念的に捉えて、内容を深く掘り下げて話し合えるような友人が欲しかったのだと思う。そのためにそこに参加してみようと思った。


志望者が一人ずつ、舞台に見立てた赤っぽいライトの下へ立って、そこで何かをアピールするという儀式のようなものが始まった。そこでの様子を見ていると、志望者の殆どは、自己アピールをしたくて仕方ない、目立ちたがり屋の騒がしい人達だった。
この演劇サークルは期待したような場所ではなく、自分はひどく場違いなところへ来てしまったという気がした。私にはあんなふうに笑いを取ることはとても出来ない。自分の番が来る前に、ここから逃げ出そう。
持ってきた荷物は、茶色い子猫の写真がプリントされた箱がひとつ。それを持って一刻も早くここから出ようと箱を探すけれど、何十人もの荷物が無造作に放り投げられたように床に置かれていて、そのなかに混じった箱が見つからない。


探しているのをさとられないように気を付けていたのだが、友人のAが声を掛けてきた。もう帰ろうとしてるの? 
Aと一緒にもうひとり、(名前のわからない)友人が現れた。
連絡もくれないし、なんか壁を作ってるよね。本気で相談に乗って欲しいなら、携帯の番号も持ってないなんてありえないし、私達の身にもなってよね。ほんとは私達なんてどうでもいいと思ってるんじゃない? 何でも病気のせいにすれば許されると思ってんじゃないの?


私はそんなことを言われ、心外だった。自分の心の状態が悪いことを伝えてはいたけれど、あまりに詳しいことを話せば彼女たちの負担になるし、明るく楽しくおしゃべりできないのは彼女たちも内心嫌だろうと思ったので、たしかにその点では少し距離をおいたかもしれない。迷惑をかけられないという配慮のつもりだった。
返す言葉もなく、私は黙って聞いていた。携帯電話がそんなに大切ならすぐに契約したって良い。でもこれはそういう問題?


子猫の描かれた箱がようやく見つかった。誰かの荷物の下敷きになり、箱が潰れていた。無残に折れ曲がってしまった猫の顔を元に戻そうとしたが、元に戻らないことは明らかだった。いつもそうだ。私の大切なものを、無神経な人達がそうとも知らず踏み潰していくのだ。彼らに悪気はないので、私は誰のことも責められず、ただ自分を責めるしかなくなるのだった。
ここに集まった目立ちたがり屋たちにも、二人の友人にも、強い嫌悪感を感じている自分に気づいた。


そうやってすぐ逃げ帰るから、誰からも相手にされないんだよ。友人がそう言っているような気がした。しかし確かにそれは、友人の発した言葉ではなく、私の心が発した言葉だった。



私を排除しようとした人達は、「私が」排除しようとした人達なのかもしれない。そんな事を考えた。
目覚めると、孤独が胸に詰まって、とても苦しかった。