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心を揺さぶるほどの歓び

子供の頃、必死に練習して、逆上がりが初めて出来た時。
雑誌の懸賞で、当時好きだった漫画のジクソーパズルが当たった時。
探していた、理想の形のバッグを見つけた時。
手の込んだ、美味しい料理を食べた時。
ああ、幸せだなあ、と人々が言っているようなシチュエーションで、幸せだと感じたことがなかった。
何かが欲しいという気持ちはあっても、それが手に入った途端に、どうでも良かったことを知る。
それは今も変わらない。何かを望んで、手に入らないことも辛いけれど、手に入ってしまったあとで強烈な虚しさに打ちのめされることが、もっと怖い。これは、欲がないというのとは、違うでしょう。


嵐の夜に、安全に過ごせる家があって、寒い日に暖かく過ごせる部屋があって、お風呂に入れて、温かい布団で眠れること。飢えることがないこと。生活するのに必要なものが手に入ること。蛇口をひねれば綺麗な水が出ること。それらが涙が出るほど恵まれたことだと、しみじみ思う夜もある。

けれど、何か美味しいものを食べられたから幸せだとか、可愛い服を着たから幸せとか、旅行に行けて幸せとか、新しい体験が出来て幸せとか、そのような幸せの感覚が、ぼんやりとぼやけて見えて、よくわからない。
もっともっと望み、もっともっと幸せになろう。沢山楽しんで、人生を謳歌しよう。そういう社会からの刷り込みに乗っかって、人生をサーフィンでもするように乗りこなすことが良しとされてきた時代に、私は完全に取り残され、ひとり波に溺れている気分だった。そして、そんな波に乗ったところで、自分が幸せを感じられないだろうことも、よくわかっていた。


子供の頃、何かを楽しいと思ったことがなかった。みんなが楽しかった! と言っているときは、それに便乗して楽しかったふりをした。そういった演技をすることが、社会で生きのこるために必要な犠牲だと信じていた。
楽しいという感情はどういうものだろうと、それを知りたいという好奇心すら抱けなかった。人と同じ振る舞いをするために、周囲を観察し、自分が満足に演じられているかどうか常に点検し、それが演技であることを悟られないようにする気遣いも必要で、それで精一杯で、余裕がなかった。
人より著しく優れていてもいけない、著しく劣っていてもいけない。得意な分野では、敢えて出来ないふりをしてみたり、わざと間違って答えたりした。苦手な分野では、人に遅れを取らないように、中庸を保つための努力は惜しまなかった。逆上がりの特訓をしたのも、そのひとつだった。


逆上がりが初めて出来たとき、一瞬だけ、やった!と飛び上がりたくなった。その後、急激に冷めていった熱と、じわじわと汚染が広がるように私を満たしていった虚しさ。今でもまざまざと甦るその感覚。
他のみんなができるのに、自分だけ逆上がりができないのが嫌で、逆上がりのできる自分になろうとした。そして逆上がりのできる自分になった。それで何が変わった? また同じように何かができないことに耐えられず、できるようになりたいと願うことだろう。それができるようになってまた思う。それで何が変わった? と。
その繰り返しが、未来に地雷のように埋まっているだけだということが、見切れてしまった。
苦手を乗り越えてひとつ成長したという、世間でよくあるストーリーを自分で演ずることとなったけれど、それも私にとっては、鈍い目眩を覚えるだけのものだった。

楽しむということは、楽しまなければならないという義務を押し付けられることだと感じていた私には、当たり前の、普通に楽しむという意味でさえも理解できなかったのに、世間では、プレッシャーを楽しむとか、スランプの時期を敢えて楽しむ気持ちで乗り越えるとか、そういう美談が溢れかえっている。それらは尚更、遠くに煌めく星のようで、つよい劣等感を残して通り過ぎていった。


心を揺さぶるような楽しみ、歓びがわからなくても、今ここで与えられているものに感謝する心を持てば、満ち足りることができる。
些細なことを幸せに思える感性を育めば、不平不満は減り、幸せに感じることが増えていく。それはたしかにそうだろうと思う。一方で、多く望むこと、高く希望を掲げることも、良しとされる。
今でもわからない。
既にあるものに満たされて、何も望むことがないことが、本当の幸せなのかどうか。幸せを求める心を持たないことが、幸せなことなのかどうか。
あるいは多くを望み、次々に引き寄せて手に入れていく人生にこそ、本物の価値があるのか。本当にそうなのか。

私は、無意識のうちに大きすぎる歓びを求めているために、世間にころがる小さい歓びに対して無感覚なのかもしれない。そんな大きな歓びが、この星の、この日常に存在し得るのかどうか、確信も持てないくせに、それを体験するために生まれてきたような気がしている。