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願うことが何もない

金木犀の木を植えたかった。秋風吹くころにどこからともなく香ってくるのが好きで、家の庭にも一本欲しいと言った。父は、庭を管理しているのは自分だから面倒にになることは望まない、どうしてもと言うなら鉢植えで管理できるものにしろと言った。言う通りにするのは癪だったけれど、揉めるのも面倒くさかったので、鉢植えでも育てられるという矮性の銀木犀を見つけてそれを買った。

それから二十年ほど、結局地植えにしてしまったし、ミニサイズといえ結構大きく育った。金木犀はオレンジ色っぽい花が咲くけれど、うちのミニモクセイはアイボリー色の花が咲き、香りは金木犀に似ているけれどよりさっぱりとしていて上品で、むしろこっちのほうが好みだということが後でわかった。赤ワインと白ワインの違いと言ったところか。

望んだことに対して邪魔が入って、そのままの形で叶わなかった時、よくよく後になって考えると望んだよりももっと正しい形で叶っているということがある気がする。父に拒まれたおかげで、結果として金木犀よりも好きな香りの銀木犀と出会うことになったように。
望んだことが次々に叶っていく、引き寄せの力を発揮して人生を輝かせましょうとよくスピリチュアル界隈で言われるけれど、一度よく考えてみた。願ったものがどんどん手に入っていくという人生、それは幸せなんだろうか?と。それは願ったものしか手に入らないということ。金木犀が手に入ったら、銀木犀と出会わなかった。

何が本当の願いなのか、何が本当に欲しいのか、これまでの狭い経験と知識の中でしか導き出せないのに、それが本来の自分にとって正しい願いかどうかわからない。
願いというのは叶えようとしなくても叶うものなのだ、叶うからこそそれを願うようにできているのだと思う。その叶い方までコントロールしなくていい。どんな道筋を辿っても、私という自我の与り知らないところで、完璧に展開している。全ては既に与えられていて、それを発見していくだけ。願った以上のことを与えようと宇宙は今日も拡大している。
何一つ願うことがないというのが、最も幸せなことなんじゃないか?と今は思っている。