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革に触れることができない

いつのことからか、革に触れることができなくなった。鞄や、財布や、靴や、様々な革製品が耐えられなくなり、昔から持っていた幾つかの靴を除き、今ではほとんど革製品を持っていない。


何が苦手なのかと言われても、うまく言葉で説明できそうにない。私にとって、切り花が苦手なこと、チューリップの茎が触れないことと同じで、理由は後付けできても、先には立たない。
唯一つ確かなのは、革の匂いが耐えられなくなったということ。革の財布を入れていたナイロンのバックにまで、革の匂いは深くこびり付いている。まるで薄暗い過去の記憶のように。幾度となくナイロンのバックを洗濯しても、完全に匂いが取れることはないという程に。


革が文字通り動物の皮膚であることに、観念的に抵抗を感じているから、という面もある。けれど、それが主なのではない。それは観念の問題ではなく、理屈の通らない感覚の問題。
私の観念は、感覚にだいぶ遅れを取っているみたいだ。でも、それが自然な姿なのでは。


革の代替となるのは、合成皮革や、ナイロンやポリエステルのような化学繊維が殆どだ。やがて地球に還ることのない化学繊維を多用することは、エコロジーの観点から言って正しくないという問題に突き当たる。
バッグなどは綿素材などもあるけれど、ずっしりと重いものが多い。体力に自信のない私は、できるだけ荷物は軽くしたい気持ちが強く、どうしてもナイロンなどの軽量さと機能性を選択してしまう。
観念が否定することを、身体的感覚は肯定している。
結局、私はいつも感覚を優先する判断をしていることに気づいた。あらゆることでそうかもしれない。それが正しいかどうかはわからない。
観念の及ばない領域にあるものを、無条件に信頼しているということなのかな。


フェアトレードにこだわった時期もあった。相対的に貧しい地域から搾取するのではなく、公正な貿易を、という理念はどこまでも正しく、煌めいて見えた。
それなのに、次第に、何かが違うという抵抗を感じるようになった。協力してあげている、何かをしてあげているという上からの目線が、私の意識のどこかにあったのかもしれない。それが腐敗臭を漂わせ始めたのだろう。それに自分で耐えられくなった。
恵んであげているという高慢さの他にも、それをしている自分はかっこいいという、ある種の優越感もある。意識の高い人たちの中で、誰が誰よりもっと意識が高いのかの競争が始まる。
チャリティやボランティアも同じだと思う。それは、する側の心の不純物を顕にする試験液のようなものかもしれない。「正しさ」の後ろに隠れ、不純物が見えにくくなるのが、なお一層怖いことだ。