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恋とは一人でするもの

『シンプルな情熱』アニー・エルノー著 読了。

赤裸々な内容と言われることが多いようだけど、特に驚くようなものでなく、ごく普通の女性のごく当たり前な恋の情熱の記録に、私には思えた。理性を失って熱に浮かされるさまを、殊に理性的に描くという意味では、当たり前ではないのかもしれない。

相手の男性は、単に性愛が目的なのだろうし、それを「私」もよく解っている。相手に自分の傾けているものと同等のパッションを全く求めようとしないということが、とても潔く、峻厳な山を登っている一人の登山者の記録のようでもある。相手の「存在」は必要としているけれど、相手という人間は必要としていない。完全に自己完結した情熱であり、恋というものは一人でするものなのだと知らしめられた気がする。

とても知的で賢い女性が、雑誌を見れば星占いをまず読み、シャンソンに惹かれ、些細なことで願掛けをする。全く理知的でない、情緒的とも言えない、通俗的な行動に走る。妄想と紙一重の想像にぼんやりと時を費やし、自分の知力や経験が全く役に立たない無力感に打ちひしがれ、同時に激しく高揚しているよう。99%の苦悩と1%のときめき。

この主人公の在り方は恋をするすべての女性に共通しているように思える。けれどそれが当たり前にならないのは、ここまで純粋に「恋」だけを抽出して不純物を含まない情動が、この社会では稀なことだからなのかもしれない。

世界のすべてに対し、恋する相手を介してしか接触できなくなる。「世界」は恋する相手の名と同義語になる。空も風も、水も空気も、呼吸をするために必要なすべてがその人と一つになる。なのに、その存在はいつ自分の前から消えてしまうか解らない。常に息のできなくなる恐怖と隣り合わせであり、生命の危機がすぐそこにある。常に魂の「死」を意識しないではいられない。エロスとタナトスはほとんど同じものだというのはそういうことなのかな。

その人が消えた後、全ては意味がなかったことを知る。無意味だったという意味を持つ。何ももたらさず、奪われただけのように見える。しかもすべてを奪っていったのは愛した相手ですらない。それこそが情熱というものの本質で、燃え尽きるということ自体が、その経験がもたらすご褒美なんじゃないかと思う。奪いつくされ、燃やし尽くされた後の廃墟に、朝露が輝いている。その風景を見つめるということ。それは決して恍惚ではなく、ある種の諦念に近いけれど、もっと美しいもの。

結婚とか生活とか子育てとか、家計簿とか保険とか家のローンとか、そのようなものに意識を囚われること、生活の垢のようなものから完全に自由にならないと、こんな恋はできない。純粋な恋とは、つまり背徳そのものなのかもしれない。

命の危機をすぐ傍に感じるからこそ、生というものがより輝く。何億光年彼方の恒星のように、ギラギラと命を燃やして生きる。それが恋に生きるということなんだろう。だから生命は恋を希求する。

恋とは一人でするもの、一人で完結してしまうものなのだとしても、それを互いに鏡のように映し合い、共有し合い、互いに生きる目的となる──恋が循環し合う関係が存在し得ると信じている。そうでなければあまりに虚しい。
生命の遥か彼方、魂が陰と陽のふたつに割れた、その片割れを探すように宿命付けられていて、その本能的な情熱が人間を貫いているのだという気がする。人は、その情熱のマリオネットだ。