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名前という仮面

私の名前の漢字には、父の名前と同じ字が一字入っていて、安易に父と同じ漢字を使ったことがずっと気に食わなかった。名前の音としての響きは気に入っている。けれど文字の視覚的な印象がどうしても嫌で、通称として他の字を使おうかと考えたりしたこともあった。それも面倒でやめた。

そんな話を何人かの人にしたことがあるけれど、大抵「私も自分の名が気に入らなかった」という答えが返ってきた。私だけじゃないんだなと思う反面、「自分もそうだったけどそれを乗り越えて受けいれられるようになって、今では結構この名もいいかなと思っているんだよ」なんて話を聞かされると、わかってもらえたと言うより相手の自慢話を聞かされたような気分になり、気が滅入ったりした。別にその人が悪いわけではなく、すべて自分の問題なんだとわかっているけれど。

苗字の方も事情があり、名乗っている家の血を私自身は全く継いでいないので、ずっとどこか借り物のような、他人のものを盗んでいるような居心地の悪さがあった。結婚すれば変われるからと若いうちは思っていたけど、そうもうまく行かずに随分経って、いまでは名字が変わることの実務手続きのほうがむしろ面倒くさいと思うようになってしまった。

そうやって姓も名も気に入らない名前を今も名乗っているわけだ。だからか、鈴鹿響という20年もネット上で使っている名のほうが自分に相応しく、自分をよく表しているような気がする。勝手に作った名前を名乗り、それを生きて長い時間が経つと、その名前が実体を現し骨格と血肉を纏い、生命を持ち始めるみたいだ。

名前の違う何人もの自分を生きられるとしたら。一番簡単なパラレルワールドだし、アバターを生きること。でもそれを使い分けて意図してコントロールできているわけではなく、自分の意識しないところで繋がったり離れたりする、厄介なパラレルワールドでもある。それはねっとりと絡み合っていて、粘液状の糸を引いている。それに足を取られる感じがいつもある。どれかが強く押し出されれば、他のどれかが押し戻され窮屈になる。何重に人格があったとしても、すべて同じ糸で操られているような感じ。

逃れられるものは何一つない。逃れる必要もない。鏡に映った自分でさえ嘘をついている。自分というものは本当はどこにも見つからない。