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男らしさ女らしさ

男らしさ・女らしさという言葉を使うだけで、ジェンダー意識が古いと言われてしまうのは、どうなんだろう?
男らしくない男性がいてもいいし、女らしくない女性がいてもいい。それは個人の領域で、どんな個性を持っていても否定されてはいけないと思うけど、それが短絡的に男らしさや女らしさを求めることが悪であるという認識に至るのはおかしくないか?

男女が「平等」であることや「同権」であることと、男女が「同質」であるということは全く違う。そこを同一視するのはおかしいと感じる。
男女が同じ権利を持つのだから、同じ質であるべきというのは、生来持つ男性として、女性としての特質も全否定していることだから。

中学生の時、給食当番になると一階の給食室から三階の教室まで、牛乳瓶の並んだケースや大きなバケツのような鍋を階段で運ばなければならなかった。そんな時、男子が軽くて楽なものを先に持っていってしまい、華奢な体の女子が重たい牛乳瓶ケースなどを運ばなくてはならなくなることがよくあった。これを男女平等なのだからといって当然のこととするのは間違っていないか?と思う。
男性はその体の特性から筋肉質になりやすいし、体も大きくなりがち。なのに力仕事も「平等に」女子と分け合いましょうというのは逆に平等じゃない。最もいいのは、男子がすすんで重いものを持ってあげ、筋力の弱い女子を助けてあげるという思いやりを持つこと。持っている側が、持っていない側に配慮することの方こそあるべき姿。
もちろん力の弱い華奢な男子がいてもいいし、その人にも力仕事を強いろと言っている訳じゃない。問題なのは一般的な範疇に収まっていない人を無理に収めようとする圧力がかかってしまうこと。はみ出した人をそのままでいいとすることは前提であって絶対条件。

私も女らしいところとそうでないところがあると思う。女性が苦手としがちなところを私も苦手としていて、そういうのが得意な男性に補って欲しいと思うことがある。別にそれは男性でなくても、それが得意な女性でもなんでもいいのだけれど。

女性らしさという生来持つ形も、自己完結できるように無理やり円に近づけてしまい、凸凹した形をそのまま許容できないのは本末転倒なのでは?と感じる。凸凹していればそれを補い合って丸に近づけるのが、もともと性別の違いがあることの目的と言うか、意義なんじゃないか。
男女という性質の違いを無視するのは効率だって悪いと思う。特質の違いを尊重していくことが豊かさの根源でもあるのだし。

女性は苦しいブラジャーを付けたりヒールの靴を強要されたり大変なんだと言うと、男だって苦しいネクタイを締めているんだ!その苦しさを女なんかがわかるものか!と息巻く男の人がいるのを見かけるけど、すごく格好悪くてみっともない。そういうカッコ悪さに対する言い訳として、男らしさを求めるな!と叫んでいるのはもっとカッコ悪い。

夫婦と書くと「夫と妻」だから良くない、「ふうふ」とひらがなにしましょう──ってそういう問題? 男と女が生物として違うものであり、ただその間に曖昧な領域もある、それだけのことじゃないか? その曖昧な部分を抹殺する力があってはいけないだけで、夫婦と書いたら配慮が足りないというのは本質的に矛先が違うでしょう? コンプライアンス地獄。非常に居心地の悪さを感じる。

世界には、絶対の価値も絶対の正義も存在しない。それぞれ何を信じるかは勝手。ただそれを絶対のものと考えて、他者に押し付けて従わせようとすることが間違っているだけ。自分の価値を正義として他の価値よりも上に立とうとする、要するに単なるマウンティング。それが何よりみっともないということを肝に銘じたい。