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緑色のカップ麺

『太陽は動かない The Eclipse』 ネットフリックスにて視聴。近年見た中で一番気に入った日本の映像作品かも。WOWOW制作のドラマはクオリティ高い。

実質的な主役はフクモトと名を変えたサクライかもしれない。エージェントをやめて自分の人生を取り戻すには、一度死んで名も変えて別人になるしかなかった。けれども生きるためにはやはり裏の世界で雇われるしかないという矛盾を生きてきた。
生まれてすぐコインロッカーに捨てられていたという彼は、自分の生まれた場所であるコインロッカーが再開発のために撤去される前に、もう一度その場所に立つために日本へ舞い戻った。煙草を吸いながら佇む姿が何度も折り重なって物悲しいテーマを奏でる。

サクライに指導を受けて一人前のエージェントになった鷹野。真面目かよ、つまんねえやつだな、とからかい続けるサクライ。二人の間に多分生まれて初めての血を超えた絆が生まれ育っていくさまを上手く描いてる。ドライなノワールの中でほとばしるようにリリカル。

爆弾の配線をカットしていきギリギリで止めるとか、スパイが身バレしそうになってドキドキハラハラとか、定番中の定番なんだけれど既視感を感じさせない。まんまと術中にハマって、手に汗握り食い入って見てしまった。
ただ、最後の爆弾のあり得ない装飾っぷりとか、中国人殺し屋のあまりにも人間離れして戯画っぽいところがちょっと引いてしまったけど、それを差し引いても素晴らしかったのが、今日は緑の気分なんだよ──と言っていつもと違うカップ麺を食べ、緑色の線を切れば爆弾を止められることを暗に伝えていたという演出。

サクライの人物造形にやられた。カップ麺にお湯を注いで三分待てずにすぐ食べる。ちゃんと笑えよ、そんなの笑顔とは言えねえぞ、と何度も鷹野に繰り返す。ヘラヘラとした笑みの下の、底知れない闇を湛えた眼。ロマンチックかよ、と小馬鹿にするように言いながら自分こそ情に抗えない。撤去されつつある自分のルーツ=寂れたコインロッカーの前で命の輪を閉じようとする。

人生丸ごとを差し出し、壊れたら機械的に処分されるロボットとして働く。権力とカネの下僕となっていながら、最もそれらから遠いところにある。
鷹野はどうしてサクライの「おまえはこのままでいいのか」という問いに揺らがないんだろう。兄のように慕う相手を処理しろという命令を受けると百も承知だったのに。真面目かよ、では済まされないのに。そこが揺らいだら立脚しているすべてが崩壊するからか。当然、機械は考えることを許されない。

サクライがそこを離脱しようとしたのと反対に、深く傷つけられた子供の心を癒やされずに育った彼らエージェントたちは、「よく、生きてきたね」という深いねぎらいと共感の一言に、自分の魂のすべてを容易く明け渡してしまう。情がひとかけらも存在しないシステムの中で、彼らを結びつけ動かしているのは、彼ら同士の情でしかなかったという哀しい矛盾。

カネと権力の奴隷。ある意味では、この社会を生きているすべての人がそうなのかもしれない。愛が先にあるのか、社会というシステムが先にあるのか、それさえ分からずに、生活するために自らを切り売りしてシステムに奉公する。そこから離脱しようとすると、命を狙われることはないにせよ、社会人としての生命を奪われて日陰に生きなければならなくなる。
そんな生活に耐えられる理由は、ほんの小さなねぎらいと、かすかな蜘蛛の糸みたいな人との絆だったりする。

そんなふうに、暗黒の中の一条の光がどういうものかを味わうために、壮大な仕掛けの人生ゲームを私たちはしているのかな。

こういうエモい部分のキラキラしている日本作品がもっと見たいな。韓国ものに惹かれてしまうのは、やはり情感豊かで頭より心をたくさん揺り動かしてくれるからだ。