柿の木を見ていなさいと言い付かって、泥棒がやってきて盗んでいきました、それをずっと見ていましたと答える。そういうのがとんち話かなんかであった気がする。
流石に見ていなさいというのが監視しなさいという意味だというのはわかる。でも考えてみると、言動を字義通りに受け取って、裏にある本当の意味合いを理解できないという傾向はあったかもしれない。
「誰かが倒れた」と言うとき、実際に気を失ったか何かで、立っている状態からバタンと倒れて床に崩れ落ちた状態になることだと思っていた。体調を崩して、それがかなり重症の場合に「倒れた」と表現することもあるのだと気づいたのはいい大人になってから。
けっこう頻繁に倒れたという表現は聞くのに、実際に地面に倒れて横たわってしまった人を見たことはない。ギャフンと言っている人を見たことがないのと同じ程度には見たことがない。その頻度のギャップに違和感は感じていた。倒れたときに頭を打ったりしなかったのかなと心配したり不思議に思ったりしていた。
タレントが体重何キロとか公表していたりすると、それを真に受けて、自分より随分軽い、自分は太っているんだろうか?と不安になったりした。年齢をサバを読んでいるような人がいても疑いもしなかった。皆が明らかに信じるに足らないと感じているようなことも信じてしまった。何を信じて何を信じないか、どうして皆は感覚的に掴めるのだろうと不思議だった。
皆がいつの間にか知っていることを私一人知らなくて、いつどうやってその情報を得たのだろうと心底不思議で、怖いくらいに感じることもよくあった。卒業後に誰がどこに進学するのか等、大っぴらに会話している様子はないのにいつの間にか皆知っている。私の進学先も話していない相手にまで知れ渡っていて気持ち悪かった。私は面と向かって話した相手のこと以外は何も知らない。知らないということを知られるのが怖くて、誰にも訊けない。
トラブルがあって私が泣いたとき、泣いたのをほとんど誰にも見られていないつもりだった。ところがほぼ全員がそれを知っていて、どんなホラーよりも怖かった。
その能力が足りないとか欠けているというよりは、機能自体がまるごと存在していないような感覚。私の本だけ幾つかのページが毟られていて、そこに書かれていた内容が予め失われているみたいな感じ。それがASDという理由で片付けられるのなら、ゴミ屋敷が一気に片付いたくらいの爽快感がある。それは特質であり欠落ではなかったのだから。
欠落のある自分を認め、理解して、自責をやめることを学ぶためだけに、長い時間と労力を費やしてきた。ようやくそれができるようになってきた頃にその原因らしきものに巡り合った。先にそうと知っていたら楽だったかもしれないけれど、知らなかったからこそ、指南書なしに自分と格闘し、和解するすべを独学することができたのなら、それも魂の選んできたストーリーだったんだという気がする。