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本物のユートピア

『ギヴァー 記憶を注ぐ者』 2014年の映画を観た。メリル・ストリープ ジェフ・ブリッジス出演。


ディストピアに住む人は、そこがユートピアだと信じている。だからその世界はディストピアであり続けることができるのかな、と感じた。
過度に統制され管理される閉ざされた社会は、おぞましい戦争や、過酷な気候変動、憎しみや妬みといった感情を一掃することに成功した。それと引き換えに、温かな感情や、芸術や、色彩までも奪われ、それらを体験したことがないままに生きている人々。都合の悪い命は「解放」という名のもとに排除される。殺人さえ秩序として正当化されている。誰もがそれに適応し、疑問を感じる人は誰一人としていない。


善と悪とが在り、美しさと醜さとが在り、混沌として、生命力と輝きに溢れた、かつての世界を取り戻そうとする主人公。
でもそれは、残虐極まりない戦争や、身勝手な理由での動物の虐殺や、苦しみの数々が蘇るということでもある。この地球上の、正の部分だけでなく負の部分も合わせてまるごと肯定するという視点に、最終的に落ち着いているのだけれど、その点だけは少し物足りなかった。


管理社会を統制する側は、感情や愛を根こそぎ排除すれば、醜い争いや奪い合いは起こらないと言う。確かにそれは一理あると言えるかもしれない。
でも、争いの元は、あらゆる固定した価値基準にある気がする。何が正しく何が悪いのか、どちらが優れていてどちらが劣っているのかという基準が何もかもに当てはめられ、そこで競い合い、人を蹴落としてでも上に行こうという心が生まれる。
その基準さえなければ、人間はここまで残酷になる必要がなくなるのではないかな?


私たちが自分の中から排除するべきは、単に、それだけなのでは。そんな笑えるほど単純なことなのではないかな……。どんなに高尚な学問を展開し、どんなに科学技術を進歩させても、これほど単純なことを人類は一度も成し遂げたことがない。比較し、序列を決め、我先に上昇しようとすることをやめるのは、そんなにも困難なことなのだろうか。困難と言うより、それに疑問を持つ人がほとんどいないということか。


それって、ディストピアに住む人が、その世界にまるで疑問を持っていないのによく似ているのでは。社会に共通するひとつの物差しを与えられ、その物差しを使ってすべてを測って比較して、厳格な競争に疲れ果て傷つきながらも、それでもその物差し自体を全く疑わない。
遥か未来の人間から見たら、今のこの社会も、奇妙な異世界に見えるのかもしれない。