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隕石の堆積場

社会の奴隷から脱皮する

コンビニ人間』 村田沙耶香著  読了した。


この登場人物を見て、ちょっと変わったおかしな人、普通じゃないけど面白い人、と思うなら、その人はこの社会を上手に泳ぎ、疑問を持たず、不自由することなく生活できている人なのだろうと思う。私はこの主人公を、至極真っ当な感覚の持ち主だ、と感じてしまう。私自身が “そっち側” の人なんだろう。


社会生活の中で、どう振る舞ったらよいかわからない。どうやっても周りの人から奇異に見られている気がする。それを避けるため、やがて自分の行動は他者を真似た、いわばコスプレのようなものになっていく。 “普通の人コスプレ” に。私も全くそうだったから。


コンビニという全てがマニュアルで統制された、行動の規範が明文化された小さな社会は、主人公にとって最も生きやすい場所だった。その指示のとおりに行動しさえすれば、使える人間として価値を保証される。
通常の社会だって、暗黙のうちに規範は統制されているし、空気の読み方一つまで正しいやり方がある。それを誰も教えてはくれず、見よう見まねで習得しなければいけない。これで正解だという答え合わせもできない。誰かがそれを教科書のようにして示してくれたら良いのにと、私自身、小さい頃によく思っていた。次第に、こういうときはどう発言し、どういう態度を取るものと、自分なりのマニュアルを作り上げて行った。
私の場合それは、大人になるまではそれなりにうまく機能していた。でも、それが正解なのかどうか、いつも心に不安がうごめいていた。大人になって、より複雑で込み入った力関係のなかに身を置こうとしたとき、私のマニュアルと精神は機能不全を起こし、破綻した。様々な要因が絡み合って異常に負荷のかかった一点が、崩れ落ちたのだと思う。


主人公は周りに「治る」ことを期待される。治るとは、普通の人と同じ様に、普通に行動できるようになることを指す。主人公自身も、その期待にできることなら応えようとする。とても善良で素直な人物なのだ。
何と無しに、この作家さん自身が、普通の人を目指し、周りの人に受け入れられることを痛々しいほどに熱望してきた過去の姿が、主人公と重ねられて見えてくるような気がした。


社会の中の基準に埋没して、自分を見失った人達。彼らのことを「普通」というのだろう。コンビニのマニュアルでも、社会の中の価値基準でも、それに適応し、完全に同化して、自分を開け渡して生きていることは全く同じ。社会の奴隷であるよりは、コンビニの奴隷であったほうがまだましでは?
主人公は、他にできることがないから、自分を受け入れてくれる場所は他にないからという理由で、受動的にコンビニ店員を続けてきたけれど、あるきっかけで、主体的にコンビニ店員として生きることを、自ら選択する。そこでコンビニ奴隷から「コンビニ人間」へと見事に昇華することとなる。


私自身はどちらかといえば、適応できないものに適応なんかするものかと、意地を張ることで自分の正気を保とうとしてきたような気がする。それでも「治り」たい、社会に受け入れてもらいたいという欲望がなかったとは、とても言えない。社会に貢献できない自分は蔑まれると信じていたし、影のように付きまとう罪悪感を振りほどきたくて必死だった。その欲望こそが、苦しみの源泉だったのだろうと思った。
社会から疎外されるという思いが、社会そのものへの恐怖として根付いてしまった。足がすくんで動けないほどの恐怖が、今や自分の身体の一部のように呼吸をし、脈打っているかのようになってしまった。


「社会」に生きるのではなく、「世界」に生きたい。なんなら、もっと大きく、「宇宙」に生きたいと願う。
その方が、真理により近づくことができるし、真理は常に孤高で美しいものだから。