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隕石の堆積場

子猫を保護する

デパートで待ち合わせして、学生時代の友人四人で昼食でも取る予定だったのだろう。私たちはエスカレーターを下りながら談笑していた。一通り館内を巡り、文字通りのウィンドウショッピングを楽しんだ。Hは以前よりスリムになっていて、そのせいか、すらっと背が高くなったように感じた。ずっと音信不通だったTもいて、長らく会っていなかったのにもかかわらず、印象は驚くほど当時のままだった。


Tは久しぶりに会った私に対し、面と向かうやいなや、ヘアスタイルを酷評した。分け目を右の方に取ると、右のこめかみのあたりに癖が出て、生え際が浮き上がってしまっているから、分け目は左にしなさいと言う。私も自分なりにいろいろな分け目を試し、一番ましだったのでこれに落ち着いていたわけなので、いきなりそう言われても当惑するだけだった。アドバイスという形をとった否定に、心がざわめいた。人に言われたことよりも、どうやってもヘアスタイル一つまともにできない自分への苛立ち。巧妙に仕組まれた罠にかかった気分。


一階のエスカレーター脇に、香水のコーナーがあり、私はひとりそこで足を止める。かつて興味を持っていたイタリアの香水専門ブランドの品がフルラインナップで並んでいた。「聖者の行進」「妖精のいたずら」などといったちょっと洒落たネーミング。その中で、名前は忘れてしまったけれど、鈴蘭のイラストの描かれた淡い緑のパッケージのものを試香してみた。透明感溢れる、煌めく水晶を思わせる香りで、しかもそれが時間の経過によって変化することなく、出会いの瞬間の初々しさが密やかに舞いつづけ、やがて儚く消えていくような印象だった。類い稀なその繊細さに心酔した。観念の世界にしか存在し得ない、この世のものとは思えないその香り。


そこへ、先に地下一階へと降りていっていたHが、血相を変えて戻ってきた。大変、子猫が倒れてる!
私たちは地下へと急いで降りていった。食品売り場の片隅で、グレーの毛色の子猫が仰向けになって倒れていた。食べた物を吐いてしまったようで、口の周りと、首からお腹の辺りが汚れていた。鮪の刺身かなにかを食べたようだ。生魚の匂いがした。
私が子猫を抱き上げると、子猫はすっぽりと手のひらに収まってしまうくらい小さかった。生後二ヶ月くらいだろうか。グレーの毛色で緑がかった目、ロシアンブルーのようだ。かつての飼い猫によく似ていた。
何より特筆すべきは、子猫には、左の前脚がなかったことだ。


周囲を見渡しても全く店員がいない。店員どころか客も一人もいない食品フロアを離れ、先程の香水ショップに駆け込んだ。店員に事情を説明する。店員の若い女性は、はぁ、それは可哀想ですね、とあまり可哀想がっていないような気の抜けた声で返した。事情はわかりますけれども、こちらとしましては如何ともし難いところでして、関与なさらずそっとしておくほうがお客様にも、私どもにとっても宜しいような気がしないでもないのですけれども……。満面のつくり笑顔で、要領を得ない言葉をさらに濁した。
私が食い下がると、店員は内線電話をかけた。そしてやってきたスーツ姿の職員に、無人の食品フロアのバックヤードに連れて行かれた。子猫はぐったりとしていたが、もう一度身を捩って何かを吐いた。今度は、黄色や赤やオレンジ色の野菜の粒のようなものを大量に吐いていた。ハンカチを取り出し、それを拭い取ってやる。


スーツの職員についてバックヤードに入っていくと、狭い通路で、初めて見る若い男性の店員とすれ違う。私の顔と子猫とを見比べて、あれ、またですか? と彼は言った。また、とは何のことだろう。
とにかくこの子を早く病院に連れて行かないといけないと思います。私たちで連れていきます。私がそう言うと、飼い主が現れた時に困ってしまうので、連絡先を残していってください、とスーツの職員は答えた。この子は脚がないから、それで捨てられたんじゃないですかね。飼い主が来るとは思えませんけど……Hがそう言ったけれど、私は黙って、言われるままに連絡先を記した。


Hは車で来ていたので、彼女に運転してもらって、税務署の近くにある、最寄りの動物病院に向かった。なぜかそこに動物病院があること、そこが最寄りであることを、Hはあらかじめ知っていた。
またこの税務署の近くに来ることになるとはね。Hが運転しながら言った。また来ることになった? 私はその税務署にも動物病院にも来たことはなかった。彼女が何を言っているのか、よくわからない。さっきのデパートの人も、またですか? と言っていたっけ。 


ともかく今は子猫のことで精一杯。子猫の様子を見ると、吐くだけ吐いてしまったら楽になったようで、少し穏やかになったように見えた。私の手の中に収まって、子猫はとてもおとなしくしていた。
動物病院の先生が言うことには、どこかに捨てられたこの子が、食べ物の匂いに誘われてデパートまで不自由な脚で必死に歩いていき、そこで急に沢山の食べ物を貪ったために、消化しきれず吐いてしまったのだろうということだった。衰弱はしているものの、基本的には健康だそう。


子猫は手の中ですやすやと眠っていた。この子が寒空の下に捨てられ、小さい体で、三本しかない脚で懸命に生きようとした姿を想像すると、目頭が熱くなった。私は既に、この子を飼うことを心に決めていた。並々ならぬ深い縁を感じた。Hにそれを話すと、良かったね、今度の子は飼うことができるね、と彼女は答えた。
今度の子は……? 以前にも同じようなことがあったのだろうか。私には全く記憶がなく、その灰色の闇に包まれた何かに、ただ怯えるしかなかった。以前に何があったのか、訊いてみようか。でも、ぎょっとした顔で振り向かれるのが怖くて、言い出すことができない。

 

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