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いちばん可哀想な花

日本でいちばん可哀想な花は、桜ではないかな、と思う。
開花時期が、卒業とか入学とか年度の始まりと一致しているからと言って、定型化された感傷の象徴のように仕立て上げられ、その儚げな美を、感動ポルノみたいに消費される。
例年、酔っ払いが騒音とゴミを撒き散らし、酒臭い息に汚された空気を有無を言わさず吸わされて、必死に浄化してやらねばならない。鮮やかすぎるブルーシートの原色と無神経に並べられれば、桜の色彩はその繊細さを否定され、すっかり霞んで見えてしまう。
誰も、花を鑑賞などしていないように見える。花を言い訳に、人のいとなみの決して美しくはない部分を陳列して、それを鑑賞し合い、無理矢理に肯定し合っているみたいで。


文学作品では、『桜の樹の下には屍体が埋まっている! 』とか『満開の桜の下では皆気が変になりました』とか、咲き狂う満開の桜にみなぎる「気」のようなものを、この世のものとは思えないような「妖気」と重ね合わせて表現したものがあり、畏敬の念を感じられて、私はその方がずっと好きだ。


今の時代の桜は、人類の習慣やら伝統やら感傷等の、つつがない継続のために、季節が巡るたびにその魂を搾取されているかのように感じられて、とても悲しくなる。人間は、黙っているものは何でも利用する。自分だけの見方で推し量り、それに大勢が従えば無条件で正義となり、一度正義となってしまったものを再び見直そうとすれば、むしろ悪と罵られる。
これも私だけの狭量な見方で、桜は、人に利用されるのを大きな愛で受け入れているのかもしれない。今年は随分と静かで、寂しいなと思っていたかもしれない。
でも、もし私が桜だったら、もう放っておいてくださいと言いたくなると思う。我慢の限界を超えたら、一斉にむら立つように枯れてしまうかもしれない。日本の桜は接ぎ木によって繁殖させた、同一の遺伝子を持つ個体ばかりだと言うから。


家の庭にあった松が、何らかの伝染病のようなものにかかって、数年前に枯れた。近所でも、松のある家が多かったけれど、ほとんどが同じように枯れてしまい、伐採された。それも、たまたま流行った病気でたまたま枯れたのだと、私は思えないし、思いたくない。人間のエゴに起因して、植物界のバランスが崩れているように思えてしかたない。植物はしなやかに負荷を受け入れ、受け流すことができるけれど、度を越せば、疲労骨折するように、一瞬にして脆く毀れてしまうかもしれない。
人間の思惑によって歪められてきたものが限界に達して、あるべき形に戻ろうとする、植物界の知性による揺り戻しなのかもしれない。