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自由という刑罰

脚本家Mが、高校の国語教師だった。彼の出した課題は、彼自身の書いた脚本を参考に、それに続けて小説なり脚本なりを書いてくることだった。
一冊の分厚いノートが手渡された。ノートのはじめの数ページには、彼の脚本の登場人物が写真入りで紹介されている。かつらを被って時代劇の衣装を着た俳優たちの写真。映画の宣伝ポスターのような俳優たちの集合写真と、人物相関図のようなもの、名シーンの抜粋となる幾つかの写真。その数ペーシの後は、真っ白で、罫線だけが美しく佇んでいた。

導入の、先生が用意した脚本に続けて、各自好きなように物語を展開するように。制約は何もなく、どんな突飛な話でも構わない。自由に羽根を伸ばすように書いてください。M先生は言った。導入部の脚本を用意したと言うけれど、ノートにあるのは俳優の顔だけで、肝心の脚本は一字たりとも載っていない。これでどうやって参考にしろというのだろう。
好き勝手に書いていいという言葉を信じて、私は時代劇とは何ら関係のない小説を書き、ノートの半分くらいまで、数十ページは書き進めた。そこでふと不安になった。好きなように書いて、最後に先生の脚本の人物と無理やり絡めればいい。その人物の生まれ変わりだったとか、適当な理由でねじ伏せて、それらしく締めれば良いのだと高を括っていたのだが、そんなに簡単に事は運ぶだろうかと。


教室には、明瞭な灰色の光が満ちていた。擦りガラスで閉ざされた立方体の中にいて、立方体は宇宙を回転しつつ浮遊している。午後の授業が終わり、ホームルームが始まるまでの間、友達のSに話しかけた。自由に書けと言うけれど、どこまで自由に書いて良いのかわかんないよね。彼女も困っているような素振りは見せていたが、本気で困っている顔ではなかった。

これは自由という刑罰。どこまでも自由を与えることで、逆説的に自由を見失わせる、内側に渦巻いていくエネルギーを形成するのだ。私は先生に質問をしようと、いや、問い糾そうと、職員室へ向かう。
廊下を歩きながら、まるで違う位相にある別の意識が考えている。夕暮れにどこかで母と落ち合って、一緒に食材を買い込んで帰ろうか。段々、なにもかもが馬鹿らしくなってきて、すべてを放り出し、あたたかな黄昏に抱かれながら、家路につきたくなる。去年までは逃避しがちだった私が、今年は真っ当に学校へ通っていた。それも、卒業まであと何日とカウントダウンできるようになったからだ。早く家に帰って、早く明日が来れば、灰色の立方体が消滅する日も近づく。