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「ありのまま」の定義

「ありのままの私」「あるがままの自分」とよく言うけれど、どういう意味なのか、定義するのは難しい。
社会の価値観に合わせた、他人によく思われるための在り方から脱して、自分の価値観で生きるという文脈で使われる。社会的理想像の対極としての、自分軸の私。

でも、自分軸の私がどういうものか、それが解らないから苦労するんじゃないのか。
ごく自然に「自分らしく」生きているつもりでも、それが本当に社会の価値観に影響されたものでないかどうか、明確にできない。どこからどこまでが本当の自分の価値観なのか、自分がどうしたいのか、どうしてそんなに簡単に把握できるのか。

「ありのままの自分」が、「本来の自分」という意味で使われることも多い。恐れや不安で縮こまったり逃げ出したりしない、のびのびとしたいことをできる、本来の輝きを放つ自分。
今現在、ネガティブさに囚われて動けない状態だったら、本来の自分とは乖離していて、ありのままの自分として生きていないことになる。すると、今この場所にいる現実の掛け値なしの自分は、ありのままの自分にはまだ程遠いということになる。
ありのままに生きましょうと簡単に言うけれど、がんじがらめになったものから解き放たれる方法が、その中でもがいていては見えてこない。努力すればするほど疲れ果てていく。

ありのままとは、「今ここで存在しているそのままの状態」のことではないのか? だとしたら、問題を抱えていても、駄目なところがあっても、恐れていても不安に満ちていても、動けなくても、それがありのままなんじゃないのか?
本来の自分に返りたい!と願った途端、本来の自分イコール理想の自分になる。今現在の自分とは対極にある、ありのままの自分。そんなのおかしくない?
ありのままに生きましょうというのは、今の状態ではない本来の理想的な自分になりましょうという意味になってしまう。それでは、社会の理想像に縛られることから、自分の理想像に縛られることに置き換わっただけじゃないか……。

ありのままの自分を本来の自分という意味で使う人と、いつも本質的にすれ違っていて、居心地の悪い、決定的な違和感を感じるのはそのせい。
私はいろいろなものに囚われて、いろいろな心のゴミを抱えて生きてきたので、本来の自分として生きることがどういうことか、多分まだよく解っていない。解らないから、今現在この場所にいる情けない自分を、ありのままとして受け取り、愛してやりたいと思う。それが魂の本質である「本当の私」に遠く及ばないとしても。