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Dépôt de Météorites

クリエイター

決算書などの無味乾燥な砂を噛むような文面。精製を繰り返して微量栄養素がすべて取り除かれてしまったような味わい。規格に合わせた中にさらなる規格があり、そのまた中に規格がある。そういうのにうんざりすると、芳しい香りや圧倒的な手触りを持つ「美しい」言葉に触れたくなる。
なのに、そのような美を味わうことには精神力が必要とされて、疲れ果ててしまう。

美しいものを味わうのには体力が要る。美しいものの反対に美しくないものがあり、それを排除する心の働きにもくたびれてしまう。感性だの美だのという価値は、もうどうでも良くなってしまった。それを追い求めるエネルギーが尽きてしまった。頭でっかちな思考の部分がこだわっているだけで、決して必須なものではなかったということを知り、虚しくなった。

ただ無心に、すべてを受け入れたらいいのか。価値あるものもないものも。
素敵なものもダサいものもどちらでもいい。希少なものもありふれたものもくだらないものも皆一緒。
価値のないものの価値を知ること。それができないと、自分にとって価値あるものへと走り出すこともできない。走り出す必要があるのかどうかもわからないけれど。

自分の中にあるひとつの宇宙をありのまま具に表現して、その世界観の中に肉体を持つ自分自身もまるごと入り込んだままで生きることのできる人が、とても羨ましかった。芸術家とか作家とか、一握りの表現者たちしかできないことだと思った。

それを職業にできない限り、自分の宇宙の中で完結して生きることができない。食べていくためにとか、周りの人間と接していくためにとか、様々な理由でちょくちょく自分の宇宙の外に出ないといけない。職業に出来ていれば周りの人たちの方がその中へとアクセスしてきてくれる。だから成り立つ。
芸術家だってトイレットペーパーを買いに行くし、お皿洗いもするだろうし、歯間ブラシで歯の隙間を擦ったりするでしょう。そういうことも完全に自分の宇宙の中に存在しながらできたらいい。

それはその人の表現する世界を、人々が消費して、人々が求めるときだけ「正しく」成り立つもので、正しくなくてもいいのなら誰だって成り立たせることはできるのかもしれない。私もそうか。でもそこにはどうしても後ろめたいような感覚が残る。正しくなくてもいいじゃん。そもそも正しい存在と正しくない存在の間に生まれながらに線が引かれているわけでもない。

食い扶持を稼げているかどうかが大切なことなのではないと思っていた。自分の魂に正直に生きていればお金なんて二次的なものと思っていた。でも考えていたよりもずっと大切なことだったのかもしれない。家の財産でなんとか食べていけるから、幸か不幸か、稼がなければいけないという差し迫った欲求がなかった。
完全に自分の世界観を生きるためには、その世界の内側に留まったまま稼ぐことができなければいけないのかもしれない。それができないと、パートタイムで、時々外へ出て偽りを生きなければならなくなる。

誰かにまるごと依存して生きるのも悪くはない。そうしていた芸術家なんていっぱいいると思う。でも私は芸術家になると決めて生きてきたわけじゃないし、実際そうではないのだし。肩書という意味ではなく、自分とは何かというアイデンティティの問題。クリエイターは、自分の人生もクリエイトできているからそう名乗れる。
人生の中で、お金を稼ぐということを軽視しすぎていた。そのことになかなか気づくことができなかった。誰かに頼り切るのではなく、自分を偽り自分にとって苦であるやり方を強いて稼ぐのでもなく、どんな形でもいい、自分だけの世界観の中に居たままで、苦しむことなくお金を稼ぐということがどれほど大切なことか、初めて身に沁みてわかった気がしている。それが人生をクリエイトする、基本中の基本のフォースなのかもしれない。