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不安に備えるということ

自分でどうすることも出来ない天災や社会状況などに対して、私はあまり不安を感じない。将来年金がもらえるどうかとか、自分が直接働きかけることのできない事象に対して不安になっても所詮何も出来ないのだから、無駄な心労だなと割り切ることができる。

その反対に、自分でハンドリングしなければいけない、選択しなければ始まらないような事象に対しては、どうしたらいいだろうか、ちゃんとできるだろうかという不安はいつも他のどんな感情より近くにあって、とても苦しんできたと思う。

自分の手の届かないことに対して不安になったら、それが起こってもなんとかサバイバルできるように備えようという気持ちになるのだと思う。地震に備えて備蓄をしておこうとか、あらゆる事態を想定して備えておくことで不安を安心に変えることができるから、そのような行動を取るんだろう。
そのような最悪の事態を想定した行動を取ろうとすると、心がひどく重くなり、考えているだけでどんよりと暗い気分に支配されてしまうので、私はついつい備えるという行動から離脱していってしまう。はじめはあれこれ準備しておいたほうがいいかなと考えても、いざそれらを選択するとか手に入れようとかいう場面になると、ものすごく気が滅入る。なので、最低限の水や保存食くらいで、たいした備えをしていない。不安を安心に替えるためにする行為で、気分が落ちるのはどこかが間違っている。

不安な気持ちやどんよりと滅入るような気持ちを持てば、それに波動をチューニングしているようなもので、より不安になるようなことを現実化するはず。ならば不安になるような行為ならしないほうがいいのだということになるはず。それなら備蓄なんて一切考えもしないほうがいいということになるんじゃ?
それが本当に正しいの? 未だによく解らない。

準備しようとすると、それまで知らなかった不安がやってきて玄関のドアを叩く。
愛から行動するか、恐れから行動するかということを選択の基本に置きたい。
心が明るくならないことは行動したくない。

何が起きてもなんとかなるから大丈夫、そう思っていれば本当にそれでいいのか? 人の数だけ宇宙があって、それぞれに違う展開をしているなら、知識をフル動員して不安に備える人生と、バカ丸出しで無防備になる人生と、その中庸と……どれがいちばん良いのだろう。