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無為徒食

フーテンの寅さんとか、遊び人の金さんとか、無為徒食の「雪国」の主人公とか、昔はまともな職がなくフラフラしている人間にも市民権があった気がする。むしろ一種のカッコ良さ、肯定的な認識も少なからずあったような気がする。
敢えて倫理を外れ、正しくないとされるあり方をしてちょっと斜に構えるのが格好良いという感覚はたしかにあったと思うのだけど、どこに雲隠れしてしまったんだろう?

親や社会の言いなりにならないで「夜の校舎窓ガラス壊して回った」りするのも格好良かったはず。器物損壊は良くないとしても、そのような心意気のようなものはたしかに高い価値を認められていた。これが一切合切無くなってしまったのがどうしても気持ち悪い。

今では社会のためになること、役に立つことが唯一の存在意義となってしまった。批判されないように優等生的な発言ばかり、美談ばかりで、そこだけ見れば一見素晴らしいことのように見える。けど、とっても気持ちが悪いと感じてしまう。そう感じるほうが心が歪んでいるんだと思ってしまいそう。

誰かにチクられるわけではなくても、衆人環視の社会は息苦しく、どんどん生き辛くなっているとしか感じられない。人と人が縛り合い、正しさという武器で攻撃し合い、ギスギスと擦れあって常に細かな傷だらけ。これを人は美しい社会という。昔より倫理的になっていい時代になったと、ほんとに思ってる?

否定されないように深い話は自然と避けるようになる。本音を言っているような演技で、心を開いているようでいながら実は、透明なスマホケースみたいな仮面を器用にかぶっている。あからさまに壁を作りわかりやすい仮面をかぶるほうが罪がないと思える。人と人との繋がりがどんどん嘘くさくなり、いつも繋がるための圧力を掛け合っていなければすぐ離れてしまうのが本能的にわかるから、もっと密にやり取りをしようとする。それでも実際は繋がりの質は劣化していくばかり。

無為徒食で何不自由なく暮らしてる人を見たら、毎日働き詰めで息つく暇もないような人から見たら妬ましく思えるだろう。不公平だということで苛立ちをぶつける対象となり、それは社会正義に合致しているので自己肯定もできる。

昔は良かったと言いたいわけじゃないけれど、かつての時代の寛容さが懐かしい気がしてしょうがない。優秀な社員の影に、うまく仕事ができなくても堂々と給料をもらっている社員もいた。なんならサボってばかりでなんの役にも立たなくても、なんとなく潤滑剤のようになっている社員もいたりした。お茶くみしかさせてもらえないという愚痴をこぼす若い女性社員たち、お茶くみだけで給料をもらえていたなんて凄く恵まれたことでは。役に立っていない人にも社会にちゃんと居場所があった。
それは景気が良い時代だったから成り立つことだと言われるかもしれないけど、それだけなんだろうか。そうじゃないと思うな。そういう人に椅子を用意する気がなくなっている。無駄を切り詰めるのが正義だから。

正義を振りかざしていると、それ自体に足をすくわれる気がする。内部がスカスカになっていても気づけない。だからか、正義ってものに嫌悪感しかない。赤信号だって人も車も全くいなければ道を渡るし、盗んだバイクで走り出す勇気はないけど、それをただ悪いことはしちゃいけませんと一刀両断することはしたくない。