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推しを消費する

「推し活」という言い方がどうにも嫌いで仕方ない。
婚活・ポイ活・コスパ・タイパなどと同じ穴の狢感。推すという活動で自分に何の利をもたらすかが最重要な価値であることを物語っているような気がする。推し活してる自分がキラキラ充実してて大好きなの感。
昔から、誰々のファンですと言う。今は、私の押しは誰々ですと言う。私が主体なんだ。主体なのは悪いことじゃない。なのになぜこんなにも違和感があるの?

昔、尾崎豊のファンだった人は「私の推しは尾崎です」とは絶対言わないだろう。推しとして消費する対象じゃないから。憧れて共感して、崇めている対象を推しとは言わない。
ホストクラブに通うのになんか似ている気がする。お金を払ってるんだから、推し活してるんだから、そこから見返りとして良い思いをさせてもらうのは当然だ。お気に入りのホストに入れあげてもそれはビジネス関係でしか無いのだけど、推し活も似ている。お金を払ってホストを消費するとの同じく、またはディズニーランドでいっとき楽しむ如く、お気に入りの押しを消費して楽しんでいるように見える。
誰かのファンですと言うとき、そういう消費のニュアンスはない。もっと謙虚で、内側に秘めた情熱に近いものに感じる。
消費活動は資本主義社会の原動力だし何にも間違ってない。だけど、私はやっぱり推し活を楽しむという姿勢が理解できないし、共感もしたくないかな。

ミッキーやミニーの着ぐるみには人が入っているのは承知なんだけど、それは意図的に思考から追い出して虚構を楽しむ。そこは現実とは違う夢の世界であり、夢の中にいるのだという暗黙の了解のなかで、日常とはまったく別の常識が展開していく。ぜんぶ嘘だと知りながら、どっぷりと自分から頭を突っ込んでいく。自分の現実の延長上ではなく、別の世界へ逃れるためにそれは行われる。その夢のいっときが終わればすべては霧となって消えてしまうのに、それを承知の上で何の実体もないものに心を捧げている。あるいは夢に思いを馳せている時間こそが美しく楽しい時間であり、そちらのほうが本当の現実だと思い込み、見事にすり替えてしまう。それを「夢があっていいね」とは私は思えない。

誰かの「ファン」だったときには、その人に憧れる気持ちは、今現在の、自分の現実のど真ん中にあった。決して現実を無視してどこかへ一瞬逃避するためではなくて、自分の抱えている現実を基盤にして、その場所を少しでも豊かにしたいから、そのために誰かに憧れることが必要だったんだ。だから時には、自分の内的世界にいちばん接近しているその憧れを表にあらわすのは恥ずかしく感じることだったり、リスキーなことでもあった。

纏った夢を着たり脱いだり自在に操って、自分にとっていちばん都合の良い、豊かな時間を過ごそうとするやり方は、そんなことが器用にできない私には摩訶不思議な異世界の謎のテクニックのように見える。