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嫉妬を愛する

スチュワーデスになりたいけど、私なんか可愛くないから無理だよね? そんなふうに周囲に尋ねるクラスメイトの言動に、強い違和感を抱いていた。
そう言われたらほぼ100%の人が、そんなことないよ、充分可愛いから大丈夫だよ、と答えるでしょう。充分可愛いという評価を引き出すために、周囲の人間を利用しているとしか思えなかった。さらに不安や不足を装うことで、謙虚であるという好感度アピールまでできる。実際に不安を感じていたのだとしても、その不安を周囲になすりつけることで安心させてもらうのだから、そこでなされているエネルギーの交換はかなり一方的なものに思える。
謙遜する、へりくだるということは時に、その裏側に全く正反対のものを隠している気がする。


嫉妬は勝てると思う相手にするものだ、と誰かが言っていた。なるほどと思った。
オリンピック選手がものすごく速く走れるからと言って、その人に嫉妬する人はあまりいない。嫉妬を感じるのは、自分の身近なところで、自分と近いレベルにいる相手に対してするのがほとんどだと、確かに思う。オリンピックの代表選手に嫉妬するのは、自分もそのレベルに行けるはずだと内心信じている選手だけだろうな。
嫉妬の多い人は、それだけ自己評価が高いということになるのかもしれない。


それが悪いものだとして、抑圧することで、なお手放しにくくなる。自己評価が高いのも、嫉妬をするのも、それ自体悪いことじゃない。悪いことになるのは、それに苦しみながらも手放せない状態になるから。


自己評価が高すぎて、現実と乖離しすぎてしまう場合は?
そういう在り方を嘲笑う人は多いけれど、自分は絶対にそうなったことがないと言いきれるだろうか?
子供が、相手がわざと負けてくれたおかげで自分が勝てたのに、それに気づかず自分は強いのだと言って喜んでいるのを見て、愚かだなと嘲笑う人はいない。大人になっても子供のようだというだけで、嘲笑うことなどできない。単にほんの少し未熟なだけで、人間らしい過ちを繰り返すような人と同じく、どこか愛らしく、憎めないと感じる。私もそんなふうに、子供っぽく見えているのかもしれないな。


客観的であるということは幻想だと思う。誰も、他人の目で自分を見ることはできない。そう見られているのではないかと想像しているのは、自分自身のフィルターを通した思考だけ。自分を客観的だと認識している、主観的な思考。


自己評価の高いほうが、謙遜するよりも、どこか純粋な気がする。その純粋さが、私は好きなんだ。
自分を完全に放棄してしまった人は、誰にも嫉妬することさえないはず。嫉妬するのは、自分を大事にしているから。まだやれるはずと思うから。
嫉妬心を罪悪感に変えないで、そのままあるべきものと肯定すること。嫉妬心を愛すること。それはなかなか難しいけれど、苦しみから抜け出す唯一の道なのかもしれないと、思ったりする。