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崖へと突っ走る列車

『人新世の「資本論」』 斎藤幸平著 読了。
SDGsは大衆のアヘンである! という扇情的な見出し。それに釣られて読んでしまった。

SDGsには、本質的に、資本を崇拝する今の社会構造を変える力などなく、焼け石に水状態であり、結局は現状維持状態しかもたらさない。聞こえのいい美辞麗句に酔ってしまうことで、むしろ実態は、深刻な現状から目を逸らしながらも、自らは環境に貢献しているという良い気分だけ先行してしまう。ざっくり言って、そのような状態を、著者はアヘンと評したように思う。

使い捨てのレジ袋を廃止しても、おしゃれなエコバックを次々と購入しては、すぐに飽きて廃棄するような「ファッション」が、その代替として成り立つのであれば、元も子もない。資本主義は強欲で、どんな場面からでも儲けようとするだけ。どんどん捨てて新しいものに変えてもらわなければ困るので、社会にそのような空気を醸成するに決まっている。そして社会はそのとおりに動かされてしまう。

資本主義と成長を脱することは、絶対に同居できない。
経済は永遠に成長するという神話に基づいた考え方は、永続できない。
経済が成長し続けるなら、地球も人類も、遠からず滅びる。
その前に、人間自身の手で、経済成長という魔物の暴走を止めなければいけない。

先進国の豊かな暮らしは、途上国という外部からの搾取で成り立っており、ますます不平等の度合いは増している。
鉱物や資源の乱獲が起こり、地球環境や生態系に深刻なダメージを与えている。その地で暮らす人々の暮らしはより困窮する。それはあくまで外部で起こっていることであるから、内部に暮らす私達にはその構図は隠されていて見えづらい。

SDGsも、グリーン・ニューディールも、結局はその乱獲に加担するものであり、新たな搾取の循環が生まれる。新技術で地球を救うというのは一部は正解だけれど、それがすべてを救えはしない。今までの外部から搾取する構造に立脚したものである以上。
途上国の発展は、搾取する対象の消尽を意味する。外部がなくなってしまうと、どこからも搾取できなくなり、今までの構造は破綻する。

 

まるで崖に向かって全速力で走り続ける列車のよう。そこに崖があり、線路は途絶えていて、突き進めばいつかは奈落の底に真っ逆さまだと薄々気づいているのに、減速をするという考えにも及ばない。

どこまでも経済は成長し続けるという、専門的知識のない私のような人間が普通に考えたら、ありえないと感じるような「不思議」なことが、ごく当たり前に信じられ、誰もが疑ってもいないことが、本当に不思議だった。でもやっぱり、それはありえないことなのだ。間違った原則にとらわれて、その上に立脚したすべてが、いつか脆く崩れ去る。
私が日頃、漠然と感じていたようなことを、この本は明確に論理的に提示してくれたので、胸のすく思いがした。


日本では、脱成長は、団塊の世代の専売特許で、高度経済成長期にウハウハだった世代がもう引退するので、あとは野となれ山となれ、みたいな考えでいるのだと捉えられがちだそう。氷河期を生きる若い世代との世代間格差により、対立構造が生まれてしまっている、という。なるほどなと思った。
だから若い世代は、世代間の不平等にばかり目が向いてしまって、脱成長と環境問題をセットで考える外国の若い世代とは一線を画してしまっている、とのこと。なんだかもったいない気がする。

海外では左派ポピュリズムMMT(現代貨幣理論)などを支持する層と、脱成長を支持する層は一致するそう。
日本では、MMTを、ただ打ち出の小槌のように思っている人々が多く、資本主義から脱していこうという方向とは逆を向いているように見える。むしろ資本主義を謳歌しましょうという人たちが支持しているようにも見える。頭の固い人々、古い世代を否定し、鼻で笑うことに主眼をおいているようにすら感じ、MMTという理論は素晴らしい画期的なものと思うけれど、それを広めようとしているやり方に、やや疑問を感じていた。その理由が、なんとなく腑に落ちた気がした。


資本主義を終わらせて、経済成長が否応なしにもたらす地球の破壊を止めなければ。そのためには、地域に密着した共同体による新しいコミュニズムが必要だというのが、この本を貫く主張。

自ら減速することを選び、グローバル経済に背を向ける。そして身近な小さなコミュニティに、閉ざされた、その内部で完結できるような小さな社会を作る。地産地消で、外部に依存しない。
労働者が主体となって、横のつながりで社会を運営していく。今までの縦型のトップダウンによるものではなく。
「平等」というのは鍵になる言葉。不平等だから、資本主義は搾取ができる。搾取して豊かになるためには、外部に自分たちよりも下の階級がなければならない。そのために分離を生み出す必要がある。それに立ち向かうには、地域にしろ、ジェンダーにしろ、人種にしろ、格差を持たない方向へと動かしていくしかない。

労働者の組合のような組織を運営していくのが良いというのだけれど、組合がどう社会を変革していくのか、今ひとつ具体的にイメージできなかった。単に、私が浅学だからなのだろうけど、具体的なビジョンが見えて来なくて。
一般の私たちが具体的に何を目指せば良いのか、それは個々に考えることなのだろうけど、そのヒントがもう少し欲しかったというのが率直な思い。


消費することこそ豊かさだという個人の意識を改革することが、結局、一番大切で難しいことなのではないかと感じた。
個人的に思うのは、株式というシステムが機能不全になって、株によるマネーゲームで儲けることが不可能な状態になったら、いろいろなことが刷新されるきっかけとなるのではないか? ……というようなこと。

史上最大のバブルが弾けて、その後、株というものがほとんど無価値という状態になったりはしないかな。そうしたら、資本主義で満たされてきた層もこれまでのやり方を変えていかなければいけない。でもそういう人々は、美味しかった今までのシステムにしがみつき、資本主義は必ず復活し、続いていくと盲信するだろう。彼らが後ろを向いている間、そのタイムラグに、脱成長・持続可能な新しい社会へと大きく舵を切っていくことが可能となるのでは。
そうでもないと、資本主義にしがみつきたい人々は決して手放そうとしないと思う。大きな崩壊があれば、それが引き金となってくれる。
どんな深い眠りからも覚醒させるような大崩壊が、きっと起こるに違いないと感じる。起こってほしい。じゃないと、資本主義より先に、地球が終わってしまう。

会社が、株主のものではなくなり、経営者のものでもなくなり、従業員が主体のものとなれば、会社組織が、この本の主張するコミュニズムや、「参加型社会主義」に近いものへと変容していく可能性もあるんじゃないか? という気がした。

デフレは悪のように叫ばれるけれど、成長しないことがこれからのスタンダードになるはず。成長しないこと、人口が減少すること、それを正解として受け入れられる社会にならなければ、地球環境と共存できない。デフレが長く続いてきた日本は、未来の視点で見たら、一番の先進国だったのでは?