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永遠の浮遊感

『落下する夕方』江國香織著 同名の映画{1998年}

この作品を昨年の入院中に読んだ。病棟に置いてあった数十冊のうちの一冊で、ようやく本を読める程度に回復した頃に手にしたもの。ふと思い出して、映画化されたものを観た。

華子という人物の造形がこの作品の最大の魅力で、登場人物の誰もが華子に強く惹かれるし、たぶん読者の殆ども彼女に強く惹きつけられるだろう。なのに、私はこの女性が大嫌いになった。何故こんなに嫌悪してしまうのか、自分でもわからない。

嫌いだということは何かが気にかかるということで、自分にないものに嫉妬しているのかもしれないし、自分とあまりにかけ離れすぎているのかもしれないし、どこか自分自身の嫌いなところと似ているからかもしれない。

どこまでも自分の思い、本能に対して真っ直ぐで、何も取り繕わず、極度に気まぐれで自分勝手で、人を振り回してもしたいようにする。それでいて何の欲もなく、何も求めない。だからこそ、人に求められることを嫌う。「誰かのポケットに入って休みたい」という彼女。内臓を包む皮膚を持たずに、剥き出しのまま生きているみたいだ。
その在り方を、限りなく透明度の高いガラスに反射する月光のように、脆く、実体が感じられなく、一瞬息を呑むような美しさとして描き取っている。

透明な悲しみ。この物語はそれに充たされている。悲しみに透明という色を付けているのが嫌いなんだろうか。それとも、絶望からも色を奪っているから?
読中読後のえもいわれぬ息苦しさ。滑らかなシルクで少しずつ首を絞められて、息絶える瞬間に感じそうな恍惚と弛緩。

華子の突き抜けた明るさは生来のものなのか、継ぎ接ぎだらけのものなのか。どうしたら本能にここまで忠実になれるのか。悲しみからも幸せからも逃げ続けた先にある虚無──底なしの闇を覗き込んだようで足が竦む。彼女の見ていた闇の色だったのか。
落下する物体の作り出す無重力状態に永遠に閉ざされていたい。私はその願いに囚われて、そしてその願いから自由になりたかった。そうやって足掻いているさまが華子に較べてとても無様に思えるから?

巨大なブラックホールのような彼女に触れて、皆がそれを触媒に変容していくけれど、彼女という闇が吸い込むのは彼女自身だけだったから、その潔さと純粋さに嫉妬しているのか?

何重にも心を掻き乱された。心が乱れ、少しだけ憂鬱になる。夕方という瞬間に密封されて永遠に落下することは、生きていく以上出来ることじゃない。内臓を剥き出しのまま生きていくことも出来ることじゃない。出来ないことをやってのけて、見事に逃げていったから、こんなに憎たらしいのか。