SITE MÉTÉORIQUE

Dépôt de Météorites

忘れがたい友

彼女とは、入学式のすぐ後のオリエンテーションで出会った。学籍番号が近かったので、同じテーブルに座ることになった。私より遅れてやってきた彼女のことをよく覚えている。遅刻したわけでもないのに申し訳なさそうに頭を下げながら、眩しいものでも見るように目を細めて笑っていた。
その目のなかに、違う次元と繋がっているかのような「奥行き」が見えた。なんと表現したらいいか、鏡の中に映る鏡、そのまた中に映る鏡……とどこまでも続く、無限の奥行きが、瞳の底に見えたような気がした。
顔かたちや雰囲気といった外側にあるものより先に、いきなり内面を見切ってしまったような、滅多に訪れることのない感覚だった。端的に言って、瞳のなかに宿る魂の光に圧倒されたのだった。それはある種衝撃的な体験として、強く印象に残った。


父への反発から、私はほとんど受験勉強もしなかったので、入試に落ちまくって、ただ一つ受かったところへ入学した。端から見れば、仕方なく入学したように見える状況だったのにもかかわらず、私には、この大学のこの学部に行くことが生まれる前から決まっていたかのような、不思議な確信があった。何の根拠もないその直感を、当時の私がなぜ自然に受け入れることができたのか、今でもわからない。


彼女とはごく自然に打ち解けあって、お昼を一緒に食べたり、無駄なおしゃべりで時を潰したりする友人になった。人見知りのひどい私にも、似たような距離感の友人は何人かできたけれど、何の気遣いも要らずに思ったことをぶちまけられるのは、彼女だけだったかもしれない。意識しなくても、普段誰に対しても感じているある種の警戒を緩めることができ、対人関係の自己マニュアルから解放された。そのおかげか、考える前に言葉が雪崩れ出てくるように、自分の中にある思いを一番正しいかたちで言葉に変換できるように感じていた。
などと言っても、ほとんどは実にくだらない会話だったけれども。


どちらかと言えば受動的で、率先して行動するようなタイプではなかった。新しい缶飲料が発売になると、まず私に先に試すように促して、その反応を見てから自分は買うのだとよく言っていた。小悪魔的というのとはまた違うけれど、そのようなちょっと小狡いところも、彼女の魅力の一つだった。それでいて、他人に付いて回って他人を巧く利用するといったような、狡猾な感じは全く感じさせない。
彼女の好きなバンドのライブチケットを2枚入手してきて、勝手に私も一緒に行くことに決められていても、それがごく当たり前で、自然なことだった。その上、チケット代もきちんと請求された。


彼女は海辺の町の育ちだったため、いつもバックグラウンドに潮騒の音が聞こえているのが当たり前だったのだそうだ。そのせいで、無音という状態が何よりも怖いのだとよく言っていた。目が見えなくなるのと、耳が聞こえなくなるのなら、断然耳が聞こえなくなる方が嫌だと。そういうものなのか、と思うしかなかった。私にはそれが理解できなかったから。
それから、私は無音の状態というものを意識するようになった。光のない状態はイメージできる。その究極の恐ろしさも。でも音の全くない状態というのは意外と想像しがたいものだと知った。いつも何かしらの雑音が耳に入っていて、どんなに静かなようでも時計の秒針の音や、鳥のさえずりや、冷蔵庫のモーターの音、そして自分の呼吸音や、微かな耳鳴りまで、必ず何かが聞こえているもの。
それに思いを馳せるだけでも、他者の持つ恐怖という、決して同じ体験ができないものへの想像力を、喚起させ鍛えさせてもらったように思う。


あるモノクロの映画を一緒に観たときに、流れる血が実に黒く黒く、赤い血の色が映し出されずそれが漆黒に置き換えられてしまうことが、余計に血の毒々しさを増幅する気がして、私はとても恐ろしく感じた。視覚よりも観念のなかで、その黒を赤に置き換える際に、より生々しく際立つ。そのことを彼女に話すと、間髪入れず同意し、共感してくれた。その共感が、共感のふりをしたリップサービスでないことは確信できた。
ふりではない本物の共感を得たと確信できたことが、人生で何度、あっただろう。無音の状態を意識するとき、モノクロの映画を見るとき、彼女のことを必ず思い出してしまう。


もう一つ彼女の語っていたことで、忘れられないことがある。プレゼントを誰かにあげるときは、石鹸とか、使えば形が無くなって消えてしまうものをあげるのだと言っていた。自分のあげたものが、誰かのところでずっと存在し続けるのが耐えられない、消えて無くなって欲しいのだという。自分のことを、いつかきれいさっぱり忘れ去って欲しいからだと。
彼女はそのような奇妙な諦念と、いつも呼吸のリズムをシンクロさせるようにして同居していた。その諦念がどこからくるものかは、私にはわからなかった。でもどこへ向かっているかは、少しだけ想像できる気がした。
でもその想像は、あくまで想像でしかなかった。


それでも、私の誕生日に、使ったら形が消えてしまうものではないプレゼントをくれたことがある。
一緒に買い物に行った時に、私が緑色を好むのを見ていて、それを覚えていてくれたらしい。深い緑色のマラカイトという天然石のタンブルだった。正確には、彼女はその石の名前を知らなかったかもしれない。その何年も後に、私は天然石に興味を持つようになって、それからあの緑の石がマラカイトというものだと初めて知ったのだった。
落ち着いた緑色の中に、等高線のような、細く並んだ黒っぽい曲線が刻まれているその石。人の魂と同じく、ひとつとして同じ曲線はない、神の筆遣い。
まるで私が後々興味を持つことになるのをあらかじめ予言していたようで、彼女が一体どこの世界から直感的にそのデータを引き出してきたのか、とても興味深く感じた。


彼女は、標準的なリクルートスーツとはちょっと違った格好で、癖のある長い髪を束ねることもせずに就職活動をした。父親のコネがあるいう会社の面接で趣味を尋ねられ、F1が好きなので観戦しに行くときは会社を休ませていただくかもしれません、という爆弾発言をしたにもかかわらず、入社を許された。
そうこうしているうちに時は流れ、次第に交流が途絶えていった。
途絶えて行ったというよりは、彼女のほうから離れて行ったというのが正しいと、私は思っている。石鹸のように、泡立って消えていくものの中に自分を閉じ込めて、私の前から消えたのだと思う。彼女の、自分自身に対する、青白く透き通った潮騒のような諦念の行き先を、私は理解していなかったのだと知った。


私なんかのことを誰も大切にしてくれるわけがないから、自分のことを自分で大切にしてあげるんだ。そう言っていた彼女の言葉が思い出される。


その後、初めて書いてみた短い小説もどきの文章を、彼女に送った。
葡萄の粒のように、二本の指でそっと摘んであげたくなるような、そんな物語でした。という、たった一行の感想をもらった。その言葉は、どんな賛辞よりも心深くに響いた。
それが、受け取った最後の手紙だった。


彼女は今でも時折夢に出てきて、夢日記にも登場している。Mちゃん、今どこでどうしているんだろうな。